伊勢の能楽  喜多流 和谷 衡市

 猿楽は室町時代(十四世紀末)足利義満が観阿弥・世阿弥親子を庇護し、大いに栄えました。
 ここ伊勢地方にはすでに平安時代の頃より、呪師的なものがあり、世阿弥の『風姿花伝』第四神儀にも書かれている「伊勢主司二座、和屋、勝田、又今主司一座在」とあり、これが伊勢三座であります。
 これら猿楽は、大和、近江が最も優れていましたが、各地にも次のような猿楽の座がありました。

各地の猿楽
一、伊勢……和屋・勝田・今呪師(青苧)
一、吉野……桧垣本・栃原
一、大和……結崎・外山・円満井・坂戸
一、近江……山階・下坂・比叡・みま寺・大森・酒人・守山
一、山城……長命
一、宇治……幸・守菊・藤松・梅松
一、摂津……榎並・鳥飼・宿・吹田・山崎
一、丹波……矢田・梅若・日吉・八子・明王

 なお、この地に鎌倉・越前・若狭・尾張・出雲・阿蘇・熊本にもあったようです。
 又吉川英治の・「私本大平記」の中にも、楠木正成の館にて上演されている事が書かれていますが伊勢三座のいずれの座かは不明です。
 この時代より伊勢国司北畠氏の庇護を受け、国司の館があった多気の周辺に本拠地がありましたが、北畠氏が信長によって滅ぼされた後現在の一色・通 ・竹鼻に移住し、青苧は絶え、和屋(後に和谷)勝田は元緑の頃に喜多流に所属して現在に至っております。なお勝田は明治の末頃、当主の記内が没して絶えており、現在は市内通 町において通能として継承されています。
 なお伊勢三座の記録については、戦災等により焼失しておりあまり残っていません。しかし伊勢地方の能楽は大変盛んで、各地で演能されていたようで、能組等は多数残っております。
 はじめに申しましたが、呪師系の型が当家和谷に残っておりますので書いておきます。当家の翁は千歳・三番叟の他に、神楽と云う役が加わり脇方が勤め、三番叟はシテ方の少年が演じます。神楽は単衣狩衣、白大口に鳥兜を着け、翁が座に者くと正先より目付柱・脇桂の方等へ出、達拝を逆にするかの型をして拍子三ツ踏みます。由緒書に、世に和谷式翁と云い、古代の呪師猿楽の芸風が継承されて、今に残るただ一つのものであります。又少年に三番叟を舞わすのは、翁を特に神聖視した顕れかと思われます。

和谷社中神宮奉納能楽の由来

 遠い昔から神宮の神領であった伊勢の神三郡の地に、三つの猿楽の座があり、和屋(後に和谷に改む)、勝田、青尾と称した。伊勢の三座というのがそれで、毎年頭に各太夫が参拝して、祈祷、祝賀の神楽を奉能した。
 もと宮川の北に住い、南北朝の始北畠氏が伊勢国司となると、その保護を受けて大いに発達したが、室町末期同氏が滅ぶに及び、遂に神宮の附近に移って和谷家は、度会郡一色村、勝田家は同郡通 村、青尾家は同郡竹ケ鼻村に住した。
 和谷家由緒書によると、同家はもと飯野郡(今の松阪市)和屋村に住み、神宮に奉る神田を耕し、また神面 を作り神楽を演じていたという。移住後間もなく青尾家は絶えたので和谷、勝田の二座で神事を勤め来り、元禄の頃新興の喜多流を採用し、依然として、毎年正月に外宮は三、四、五日、内宮は四、五、六日の三日間宛、厳重な斎戒のもと身も心も清めて能楽の奉能を続けて来たが、明治四年神宮の諸事御改正と共にこの祝事も廃止されて了った。
 然るに和谷家の正統を嗣ぐ和谷社中が昭和二十四年秋の神楽祭より七十余年にして古例を復興し、和楽会とを共に能楽を奉納して御神慮を慰め奉ることとなって、今年で五十五回目である。